定期テストや高校入試にも役立つ中学歴史の時代別まとめ『平安時代・国風文化』
2024/02/03
中学生にとって、社会の歴史は重要教科の一つです。歴史は覚えることも多いので、各時代別に時代の流れや特徴を押さえることが必要です。この記事では数回にわたって、各時代別の概要やキーワード・キーパーソンなどを紹介し、それぞれの時代がどんな特徴を持つのかを把握してもらいたいと思います。第4回目は平安時代・国風文化の内容となります。どうぞご覧ください !
目次
①平安京の建設
奈良時代後半になると貴族や僧侶の間で勢力争いが激しくなり、国民が国に税を納めることを放棄し、律令政治が乱れたことを受けて、桓武天皇が784年に律令政治の立て直しをはかって都を長岡京に移しました。794年には京都の中心部に都を移して政治を立て直そうとしました。京の都は平安京と呼ばれ、鎌倉幕府が成立した1185年までを平安時代と言います。一つ前の奈良時代では、律令政治のもとに多重な税が民衆に課せられ、多くの農民が自らの農地を手放します。そして、それを利用したのが力のある貴族や寺社たちで、墾田永年私財法の制度を利用して、私有地である荘園を増やしていきました。この荘園という仕組みは後に藤原氏のような貴族の力を伸ばすことになります。平安京に都を移したことは、仏教寺院の多かった奈良から離れることで、政治に仏教を干渉させないという理由もありました。それほどまでに、人々の間で仏教が重要なものとなっており、国のあり方そのものまでも左右しかねない力を持っていたことを意味しています。東北地方の蝦夷は朝廷の支配に抵抗したため、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を征夷大将軍に任命して蝦夷を制圧し、東北地方にもその勢力を広げました。
②藤原氏の全盛と摂関政治
平安時代は貴族の力が強くなり、自分の子孫を天皇にすることで勢力をのばそうとしました。貴族の中でも力のあった藤原氏のやり方は自分の娘を天皇家に嫁がせて天皇の親戚となり、天皇が幼いときは摂政(せっしょう)として、天皇が成人になると関白(かんぱく)として、天皇に代わって日本の政治をとり行うというものでした。これを摂関政治(せっかんせいじ)と言います。11世紀後半の藤原道長とその子・頼道(よりみち)の時代に最も安定を見せ、朝廷の高い地位を藤原氏が独占するようになりました。
またこのころ開墾した土地はそのまま開墾した人の土地となるという決まりの墾田永年私財法をうまく利用して、藤原氏を初めとする貴族や寺社は荘園という私有地をどんどん増やしていきました。さらに貴族や寺社たちの荘園は不輸・不入(ふゆ・ふにゅう)の権というものが認められており、国から税を取られない、国の役員である国司が立ち入ることを拒否することができました。それによって農民たちは耕した土地を貴族や寺社に寄付するようになり、その見返りとしてその土地の荘官(しょうかん)として雇ってもらうことが多くなりました。こうして本来は国に納められる税を増やそうとした墾田永年私財法が、結果として国に納められる税を少なくして国の力を弱め、逆に貴族たちの力を強めることにつながってしまったのです。
③院政と白河天皇
荘園によって力を増大させていく藤原氏ですが、藤原道長の死後は少しずつその力は衰えていきます。1069年に後三条天皇(ごさんじょう)は記録所(きろくどころ)という荘園を管理する役所を置いて、藤原氏の力を抑えようとします。後三条天皇は藤原氏と血縁関係が薄かったためにこのようなことができました。その後に天皇となった白河天皇は、1086年に幼い堀河天皇の代わりに白河上皇(しらかわじょうこう)として政治を行います。これを院政(いんせい)といい、以後約100年間を院政時代といいます。
④平安時代の戦と武士の登場
10世紀中ごろになると、世の中が乱れはじめ、人々が不安な気持ちを持ち始めました。このため阿弥陀如来にすがり、念仏を唱えて死後に極楽浄土へ生まれ変わることを祈る浄土信仰が広まりました。これにより京都・宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)など、阿弥陀如来や阿弥陀堂が全国に建設されました。
地方では豪族が開墾した私有地を領地として広げて勢力をのばし、やがて朝廷の武官や貴族の警備を通して、中央の武官と交流を結ぶようになり、武士として家来をまとめ武士団をつくって勢力を強めていきました。関東では平将門、瀬戸内海では藤原純友が武士団を率いて反乱をおこしました。武士団の2大勢力が源氏と平氏で、源氏は東日本に勢力を広げ、平氏は西日本に勢力を広げていきました。武士は土地開発を進めて、領地を貴族や寺院に寄進し、その代わりに保護を受けるようになりました。
こうした中1156年、保元の乱(ほうげん)が起きます。
天皇と上皇の争いでしたが、このときに勝利した天皇側で活躍したのが源義朝(よしとも)と平清盛(きよもり)です。源義朝は後世に活躍する源頼朝と義経兄弟の父でもあります。
その後1159年、平治の乱(へいじ)が起きます。
源義朝と平清盛が対立し、平清盛が勝利します。これにより、平氏が中央政治の実権を握ることとなります。やがて1167年、平清盛は武士ではじめて太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されます。さらに、清盛は藤原氏のように娘を天皇のきさきにして、その子どもを安徳天皇(あんとく)にもしました。こうして政治を思うままに動かした平氏でしたが、やがて貴族や寺院、地方の武士たちには不満を持つ者が増えていき、鎌倉を本拠地として関東地方を支配した源頼朝(みなもとのよりとも)が、弟の源義経(みなもとのよしつね)らを送って、山口県の壇ノ浦で平氏をほろぼしました。その後時代は鎌倉時代へと移り変わっていきます。
⑤国風文化と平安文学作品
貴族は文化の世界にも影響を与え、日本の風土や生活にあった文化を生み出し、摂関政治のころに最も栄えました。これを国風文化と呼びます。平等院鳳凰堂に見られる寝殿造(しんでんづくり)や女子の服装であった十二単衣(じゅうにひとえ)、日本の風物を美しい色で描いた大和絵(やまとえ)などがその代表的なものでした。
また、漢字を変形させた仮名文字がつくられ、それを用いて「古今和歌集」などすぐれた文学作品が生まれました。また紫式部(むらさきしきぶ)の「源氏物語(げんじものがたり)」、清少納言(せいしょうなごん)の「枕草子(まくらのそうし)」など、女性も名高い作品をつくるようになりました。
平安時代のキーワード・キーパーソン
【キーワード】
『平安京』
桓武天皇が新たな政治を行なうために、794年につくった京の都。
『摂関政治』
藤原氏が一族で権力をにぎるために、天皇を補佐したり、朝廷の重要な役職をついたりして政治を行なった。
『仮名文字』
漢字を変形させたり、一部を使って日本語の発音を表した文字。平仮名と片仮名がある。
『浄土信仰』
極楽浄土は、阿弥陀如来がいて、苦しみのない世界とされており、その世界に生まれ変わることを願う信仰。
『院政』
天皇の位を譲った後も権力を持って政治などを行なうこと。
【キーパーソン】
『桓武天皇』
都を京都に移して平安京をつくった。
『坂上田村麻呂』
朝廷から征夷大将軍に任命され、東北地方を征圧した。
『菅原道真』
宇多天皇や醍醐天皇の下で手腕を発揮し、右大臣まで務めたが太宰府に左遷された。学問の神様として親しまれている。
『藤原道長』
摂政・関白の地位について、藤原氏の栄華を築いた。
『紫式部』
女流作家で、貴族の暮らしを描いた「源氏物語」を書いた。
『清少納言』
女流作家で、随筆集「枕草子」を書いた。
『平清盛』
後白河上皇の下で太政大臣を務めて、平氏の政権地位を確立した。
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